1.アルプス技研とともに歩んだ、半生を振り返る
創業の背景
私(創業者)は昭和18年(1943年)、新潟県に生まれました。地元の高校を卒業後、品川のプラスティック工場に就職した私は、同時に夜学の専門学校で電気・機械を学び、その後信号機器メーカーに転職、設計技術者としての道を歩み始めました。世の中は「いざなぎ景気」により、三種の神器を始めとする耐久消費財が急速に普及し、日本製品の海外輸出が拡大、経済大国の地位を確かなものとしていました。終身雇用・年功序列といった日本的な雇用慣行により、大量の「会社人間」「企業戦士」「猛烈社員」が出現したのもこの頃です。
しかし、日頃父親から「男は何でもいいから親方になれ。一生、人に使われてはつまらんぞ」と言われたこともあり、私はそうした世間の動きと逆行する形で、『俺は男の夢とロマンを求めるんだ!』と、心に誓っていました。
「アルプス技研」の前身である「松井設計事務所」を独りで相模原市に開業したのは、25歳のとき、4畳半一間からのスタートでした。動機は、男一匹、一回限りの人生を青天井の世界で思い切り生きてみたかったことと、ビジネス面では不自由に感じていたことを事業化しようとしたことからです。今思えば、顔が赤らむような無鉄砲さと、自己の無限の可能性に疑いを持たぬ自己陶酔の塊でした。
アルプス技研の歩み
アルプス技研の軌跡は3つの期に分けることができると思います。1968年(昭和43年)から1979年(昭和54年)に亘る12年間を、第一期:『苦難の創業期』、1980年(昭和55年)から1992年(平成4 年)の第二期は「激動の変革期」、そして1993年(平成5年)から2005年(平成17年)の第三期は、当社が大きくステップアップできた『成長期』でしょう。
ところで、社名に「アルプス技研」と命名したのは、開業から3年後、有限会社になったときです。
夜学の終了と同時に、私は登山に傾注するようになりました。北アルプス、南アルプス、越後や南会津の山や道志の山などをよく歩きました。その後、社長退任後は、ヒマラヤやヨーロッパアルプスをはじめ世界の山々を登りましたし、現在では近くの山々を登るようになっています。「アルプス技研」の社名は、山をこよなく好きであることから名付けたものです。そしてアルプス山脈のような雄大な企業を目指そうと・・・。
貧困と屈辱のスタート
アルプス技研は、こうして開業された『松井設計事務所』に端を発します。私が不自由に感じたことを事業化した「機電一体設計」とは、電気設計と機械設計が別々に行われていた当時としては、極めて斬新なものでしたが、現実は実に厳しいスタートでした。仕事は見つからない、やっと受注した仕事も不出来だと代金をまともに支払ってもらえない。昼間は営業、夕方から設計、深夜が勉学という日々が続きました。幾度サラリーマン生活に戻ろうかと思ったかしれません。貧困と屈辱、まさに”どろまみれ“の毎日でした。しかし、後には退けません。自分にあるのは「若さと努力することと夢と希望」だけだ、そう自分を奮い立たせ、普通の人の3倍勉強し、3倍働くことを心に決め、行動しました。
苦難の創業期
オイルショックによる大不況をわずかな社員と共に耐え抜き、さらに身内の不幸から何とか立ち直った私は、そのとき体得した「忍耐力と広い思いやりのある心」を、「客先の要請により技術者を派遣する」というベンチャー事業への情熱と勇気へと昇華させていきました。そして、発展と成長を遂げていくためには、まずなによりも「優れた正しい経営理念の確立」が必要であるとの思いから、当社の経営理念「Heart to Heart」を定めました。経営理念とは、「この会社をどんな考え方に基づいて、何のために、どのようにやっていくか」という包括的な方針を明確にするものであり、組織においても個人においても重要なものです。また、度重なる逆境を乗り越えた私は、この頃から「ウェルカム・トラブル」という言葉が好きになりました。
創業10年目を迎えるころ、『企業の器は、経営トップの器である』(故松下幸之助氏)を強く意識し、自己の修正、自己の確立のため、「経営や人の心」についての研修や訓練を受け始めました。自分が体験し、感動し、すばらしかった訓練や研修は社員や妻や子ども、友人にも勧めてみました。トップは率先して自らが行動し、後姿で示すことが肝要です。そして会社以外にも目を向ける心の余裕が生まれ、業界団体をはじめ青年会議所、相模原市青年工業経営研究会、技術交流研究会などの諸団体での活動を始めました。「企業は人なり」を肝に銘じ、人材育成にいっそう力を注ぎ始めました。「人材育成は中小企業にとって経営の要」であり、「会社は自己実現のための人生道場」でなければならない・・・アルプス技研の歴史は社員教育の歴史でもあります。
激動の変革期
1981年には、有限会社から株式会社へと組織を改め、相模原市に本社屋を建設、以後各地に事業拠点を開設していきます。創業15年目の1983年に、私は21世紀に向けてのビジョンを3つにまとめた「長期事業基本計画」を策定しました。
1985年には、2度目となる本社屋を相模原市西橋本に建設、さらに「技術研修センター」を創業し(現:(株)アルプスビジネスサービス)、この研修センターにおいて、後に神奈川県と協力して「神奈川経営者育成塾」を開設、起業家育成事業を開始しました。
この間、社会のニーズを追認する形で労働者派遣事業法が施行され、「派遣労働」が国によって公認されました。それ以前は、派遣事業は、職業安定法44条「労働者供給事業の禁止」に違反しているとの疑惑もあり、私は刑務所の塀の上を歩く毎日でした。新産業創造の道は険しく、規制と戦い続けること20年、人材派遣事業がようやく社会に認知されたわけです。1988年(昭和63年)には、株式公開を決意、翌年1989年(平成元年)には、長野県茅野市に蓼科テクノパーク(工場)を開設、中堅企業への道を歩みだしたのです。
株式の公開=成長期
当時私は、社業の発展に伴い、会社とは、経営者の役割とは、組織活動についてなど、いろいろな経営上の悩みにぶつかったなかで、会社を「私個人の会社から脱却して公の企業」にするにはどうしたらよいかを真剣に考えていました。また、時を同じくして経営者仲間が公開の準備をしていたり、株式公開を達成したことや、「株式を公開すると会社が大きく変わる。公開している企業は未公開の会社とは内容がまったく違う」と教えてくれた友人の話も大きな刺激となっていました。同時に、「企業のあるべき姿とは何か」を追究していた私は、「社会から認められる会社」にしなければという強い思いにかられていました。「技術者の人材派遣や技術請負を行っているこの業界が、労働者派遣法の制定により認知された今、市民権を得てさらに発展していくためには、わが社の株式公開がその一助になる」と考えたからです。
そこで、1988年(昭和63年)の春に社員に株式公開の計画を発表、翌年にプロジェクトチームを組み、全社を挙げてスタートしました。私をはじめプロジェクトリーダーや役員は株式公開の参考書を買いあさって読んだり、すでに公開された会社の社長や担当者を訪問して体験談を伺ったりしました。そして株式公開セミナーを受けたりしながら、まず内部組織や各種規程の見直し、社員持株会の開設、資本政策の研究をはじめました。どこで情報を得たのか、証券会社や監査法人、キャピタル会社が頻繁に来社するようになったのもこの頃からであり、マイカンパニーからアワーカンパニー、そしてユアカンパ ニーへと内部管理体制の整備を進めていったのです。
しかし、プロジェクトのメンバーや経理など株式公開に直接関係する社員以外は、何をどうしていいかわからず、右往左往することも多かったのも事実です。これまで是としてやってきたことのなかで、改めて監査法人や幹事証券会社に改善を指摘され大あわてすることも多々ありました。一番苦しかったのは、バブル崩壊後の大不況のなかで安定した右肩上がりの業績を上げることでした。また株式公開の公開基準を満たすためには、「私」の部分を『公』に変えていく必要があり、商法や証券取引法に従って資産や会計を処理し、人事面においても制約も受け入れなければなりません。さらに、発行株数や株主数も基準をクリアし、安定株主対策のための株主探しもやらなければなりませんでした。
2004年12月東証一部上場
株式公開を決意してから8年、1996年(平成8年)6月、念願の株式の店頭公開を達成しました。苦労した分、株式公開により得たものは大きいと肌で感じました。株式公開により信用力が増大し、受注、人材募集、資金調達を容易にしてくれたのです。公開達成の要因を振り返りますと、まず「なに故に株式を公開するかの理念を明確にもっていたこと」、さらに「その理念にそった強い信念をもっていたこと」、またそれを「執念としてあきらめずに貫き通したこと」でありましょう。
また、この時のキャピタルゲインやその後の役員退職慰労金などの私財は「社員教育のため活かしたい」との思いから会社へ寄付し、それにより基金(松井基金)が設立されるなど、「企業は人なり」であり人材育成に力を注ぐという信念に変わりはありません。
その後2000年(平成12年)9月には東京証券取引所市場第二部に、2004年(平成16年)12月には同第一部に上場を果たしました。私自身は店頭公開を期に社長を退任、会長として後任養成と引継ぎをおこない、2006年(平成18年)3月には、経営の第一線を退き、創業者 最高顧問として大局的な視点から助言をしたり、相談に応じたりしました。また、2014年(平成26年3月)からは、取締役会長に就任し、会長として経営に参画しました。
高齢化社会への対応、グローバル化
当社としては、1990年頃に立案・企画しました新スタイルの老人ホーム「アルプスの杜(もり)『綾瀬』」がオー プンし、高齢化社会への対応もスタートさせました。また、少子高齢化に対応するため、国境を越えた優秀な人材のグローバル化を目指し、日本国内にとどまらず、世界を視野に入れた人材ビジネスを展開しています。そのため、2004年(平成16年)には、中国青島科技大学と技術提携し、アルプス国際機械設計エンジニア教育センターを設立しました。また、東南アジアにおいては、ミャンマーの人々の心の温かさに感動し、現地にコンピュータースクールを開設するなど人材育成に私財を投じて協力・支援しています。ここにもまた、新たな規制との戦いがありますが、ウェルカム・トラブルをモットーに、希望、理想と勇気を持って挑戦していきます。
2.第二の経営者人生を後進の育成に注ぐ
企業の社会的責任(CSR)の遂行
昨今国内外では、大手企業の不正(社会規律違反)が続出し、役員によるその場しのぎの真実隠蔽(ごまかし)、担当者の責任逃れ(うそつき)という「公の器」としてはあるまじき言動が世間の叱責にさらされています。当社は、「会社は社会の公器である」と掲げて、マイカンパニーからの脱却、アワカンパニー、ユアカンパニー、そしてパブリックカンパニーへと脱皮を繰り返しながら変革してきました。一方、『企業の社会性(ソシオ・カンパニー)』を重視し、企業統治能力(コーポレート・ガバナンス)の向上と企業倫理(コンプライアンス)の遵守の姿勢を貫いてまいりました。良い会社とは、大きな目標や確かな経営理念を持ち、社会に貢献していくことによって、それが社会に認められ、信頼が実績となり、評価されるものです。
私は経営者の責任を、《特》+《4》+《1》と思っています。《特》は「得意先への仕事の責任」、《4》は「社員への生活保障(給与)」、「役員への生活保障(報酬)」、「株主への利益還元(配当)」、「社会への奉仕(納税)」、最後の《1》は「イノベーション(経営革新)」と分類していましたが、これに「社会貢献活動」をプラスすべきだと考えるようになりました。
社会貢献への取り組み
近年日本国内の企業の廃業率は、創業率を上回っています。経済再生、新産業の創出の原動力となるものが、起業家やベンチャーであり、「ベンチャーの経済」から「ベンチャーの社会」へ変化した時、良好な経済の循環がおこります。
1997年3月の社長退任を機に、これからの第二の経営者人生を考えたとき「広く社会の支持を得て事業活動を行い、世の中の人と金を借りて事業を起こし、成功している経営者は、次世代の起業家を育てなければいけない。それは、経営者として社会的責任の一つである」と考えるに至りました。経済の循環機能が活性化するためには、新しい会社が生まれ続けなければなりません。そして、経営を教えることができるのは、経営を体験した者のみができることだと感じたからです。これこそが、私の新たなる「使命」「生きがい」であり、事業を育てることは子供を育てることと一緒で、自分が育てた人間や会社が成長した時に喜びを感じます。
創業して新しい事業を営み継続することは、創業する以前に考えていたことよりはるかに大変なことです。私が創業した当時は、技術力はない、財産はない、信用もない、人脈もない、結果仕事の注文もない、借入もできない・・・の無いないづくし。そんな中、一番欲しかったものはと言うと、『経済と精神の物心両面での支援』でありその『支援者(メンター)の存在』でした。器と金と理論だけでは、事業も人も育ちません。精神面からも実務面からも支援をしますが、それは、病人に漢方薬を与える程度のことで、本当に求められているのは人材や経営ノウハウです。「魚を欲する者に魚を与えず、魚のとり方と教えるべし」ということです。
ちなみに、会社が伸びないのは社長の器に問題があるからです。器とは人徳であり、人徳を高めるためには自己を客観視する厳しさが求められます。時代や環境の変化に立ち向かうバイタリティとイノベーション意識を持ち、真実を追究し続ける、高い志を持った若い起業家を育んでいきたいと思っています。
このようなことから、これまで私は、エンゼル投資を行ったり、インキュベーションセンター(第三セクター)の社長に就任(現退任)して日本で初の配当を払う第三セクターに育て上げたり、日本国内外の大学に松井奨学金を設立したりしてきました。現在も約20件のベンチャーを応援しておりますが、これらの活動の集大成として、ベンチャー支援のための公益財団法人「起業家支援財団」を2007年(平成19年)3月に設立、理事長に就任しました。創業したてのベンチャーや、第二創業をめざす経営者には、経営の相談窓口となってノウハウを伝授するほか、奨学金制度、起業家育成塾、アントレプレナー教育、ベンチャー起業家の表彰などに取り組んでいます。
また、家族間を含めて、人と人とのふれあいや自然とふれあう機会を失いつつある昨今、それゆえ社会のモラルが低下したり犯罪が増加したりといった現象が多い中で、2006年(平成18年)11月には、特定非営利活動法人(NPO)「ふれあい自然塾」を設立しました。「自然と人間の共生、人と人とのふれあいから人間本来の姿を取り戻そう」という趣旨の団体で、青少年やその家族に、自然体験の中から、自然と社会の恩恵を感じ、協調性や自立の精神を高め、生きることの大切さを体感できる場を提供するものです。
アルプス技研が今日的な社会的責任(コーポレート・ソーシャル・リスポンシビリティ)をしっかりと果たしていくという意味で、当財団を積極的に後押ししていることは言うまでもありません。
「豊かだから与えるものではない。与える心があるから豊かになる」。私なりの理念です。
若き世代へ贈る言葉
私の45年に亘る経営者人生は、ピンチの連続でした。創業時=全く仕事がない、オイルショック時=廃業の危機、そして株式公開の時・・・。「なぜ、俺ばかりがこんな目に遭うのか」と、大変落ち込んだこともあります。しかし、逆境を乗り越えると、そのトラブルが不幸ばかりを運んでくるとは限らない、ということに気付きはじめたのです。目の前に越えなければいけない障壁があれば、無我夢中でそれをよじ登り、一度上りつめてしまえばその景色に感動して、不幸や不運だとは思わなくなります。登山家が更なる高みに向けてチャレンジし続けるように、自然により高い目標を自分に課すことができるようになったのです。
「トラブルを避けるな。むしろ喜んで受け入れろ。」−ウェルカム・トラブル、ウェルカム・プロブレム−
ひがみや嫉妬、ねたみの心を捨て、「今に見ていろ、俺だって、俺に期待してくれている人もいる、世の中は正しいんだ・・・」とプラスのエネルギーを発し続けること。自分の理想、夢、理念、ビジョンと言われる高い志を追い続けて、決してあきらめないこと。トラブルや無理難題こそが自分を成長させてくれる、人生を面白くさせてくれるのです。危険に遭遇したら人の後ろに回り、困難が生じたらすぐにあきらめてしまう、そんな人生ではあまりに虚しいではありませんか。
一回限りの人生、ハングリーな心で失敗を恐れず、思いっきり生きてみる・・・。私は自分の人生経験から得たこの考え方を、今懸命に生きている若い人たち、経営や人生のどこかでまさに逆風の真っ只中にいる方々に、勇気の源として贈りたいと願っています。
▼著書
○「どろまみれの経営」(株式会社アルプス技研社誌)
○「人が未来」(相模経済新聞社刊)
○「めざせ日本のビル・ゲイツ 起業の心得」(産能大学出版部刊)
○「ウエルカム・トラブル 逆境こそが経営者を強くする」(東洋経済新報社刊)
○「逃げるな、驕るな、甘えるな!」(日経BP社刊)